コラム:咲 阿知賀編その8〜近いようで遠い、「あの人」への距離〜

『阿知賀女子学院麻雀部ができるまで』





スタンプラリー以来、約1年ぶりのコラムです。
今回は論点一つに絞って、話を展開しようと思います。

もっとも一つだけのはずですが、何故かそんなに短くないです。よろしければ長〜い目でお付き合いください。







このコラムは2014年7月末から書き始めたものですが、
その直前、7月25日発売のビッグガンガン2014VOL.8の
「咲日和」は阿知賀の巻Cでした。


時系列的には阿知賀編1巻に収録されている第2話の中ほど(1巻p103)
阿知賀女子学院麻雀部を結成し、インターハイを目指すためには5人必要で
そのために宥姉に加わってもらったものの、あともう一人が見つからない・・・という状況です。


吉川さん、中島さん
誰に頼んで断られたのか、具体的に名前を挙げて語られたのは今回が初めてですが
足湯の傍で、「バツばっかり〜」と唸っている穏乃の様子は当時から描かれています。



・・・さて、以前から不思議ではあったことですけど
このように明確に描かれると、なおのこと浮かびあがってくる一つの疑問



なんですぐに鷺森灼のところへ行き当たらなかったのでしょうね?



ご存じの通り、この後、五人目のメンバーとして加わり、
部長も任され、チームの副将を担うことになる灼は、
その後さらに顧問として就任する赤土先生の存在も合わせ
阿知賀女子学院麻雀部にとって欠かせない、これ以上ない人材でした。が。 


問題は声をかけたらたまたまそうだったというのではありません。
ちゃんと松実姉妹、特に玄には「予備知識」があったのです。

幼稚園の時には既に麻雀をやっていた、
どころか大人とも渡り合えるくらいの腕前。
しかも当時麻雀をしていた場所は他ならぬ松実館。
さらには現在も、玄のクラスメイトであるという。

過去の経歴でも、接点の上でも申し分ありません。
というより、ここまで関連がありながら
何で玄が灼に思い至らないのかとさえ思えてきます。



なぜ、灼ちゃんのもとに誘いに行くのに時間がかかったのか?
そこらへん、例によって例のごとく、話の都合と言われればそれまでなんですけども

(※部員集めは難しいと第1話で触れていたのに、憧・宥姉・灼と
  とんとん拍子で「当たり」を引いてしまったら、苦労した感がない、とか
  あるいはここでの会話を通して、灼がどういう子なのか紹介するメタ的な意味合いを持たせるため、とか)

ここは一つ私なりに、類推してみたいと思います。


ではこれまた例によって例のごとく、話に付きあってくださる暇がありましたら以下へ、どうぞお願いします。




・・・端的に言えば、それだけ『ブランクが空いていた』ということなのでしょう。

ただし、ブランクと一口に言っても、そこにはいろいろな要素があるかとも思います。







その1〜時間的なブランク〜



まず、玄と灼の間柄について、一言で表すならば「幼なじみ」ということにはなります。

上述の通り、幼稚園の頃に松実館で一緒に麻雀で遊んだ仲です。

なんですけど・・・

ただし、それは10年も前の話です。


幼稚園の頃仲がよかったのだから、10年経っても仲良しのはず!
・・・とは、私、よー言いません。

(あの頃は一緒に遊んだけど、今はどこに住んでるのかもわからないなぁ・・・)

という友達の名前が、振り返ってみれば頭の中で浮かんできます。



「みんな少しずつ別れていく・・・」

和の話にもありましたが
進学とか、クラス替え、転校、いろいろなことを経て、
出会う人もいれば離れていく人もいるものです。



ましてこの2人の場合、小学生未満の頃です。
それまで(当時5〜6歳)より、それから(同15〜6歳)の方が遥かに長いのです。

もちろん、幼稚園の頃から高校に至るまでずっと仲が良い例もたくさんあるとは思いますが
それが当たり前だとは、私にはとても思えません。


灼が麻雀を「小1の頃からやっていない」ことを
誘いに来たこの時まで、玄は知らなかったし、
灼の方も告げてはいませんでした。

現在はクラスメイトであろうと何であろうと、こと麻雀を通じた二人の関わりは
10年前にひとたび離れてしまっていたことは明らかです。

周知の通り、玄が参加していた阿知賀こども麻雀クラブにも、
灼は名を連ねていませんでしたし。



灼のことを思い出したのが、クラスメイトの玄より宥姉の方が先だったことについて。
同様にクラブに参加していなかった宥姉にとっては、
「小さいころから麻雀ができる子」で「赤土先生のファンだった」というのが灼に関する認識なのですが
クラブ員だった玄からすると、「同学年でクラブに参加した子(≒麻雀に興味のある子)はいなかった」
という記憶の方がより新しく、鮮明です。
無論、それは灼も含めてです。
(クラブがあった中1の時も同じクラスだったのかはわかりませんが)


クラブ解散後、2年もの間、部室を一人で掃除し続けてきたことと合わせて
「私の学年から候補を見つけるのは難しいかも」という意識も、あるいは働いていたのではないかな、とも思います。







それでも麻雀以外にいくつか接点があったのならそれほど疎遠になることもなかったでしょうけど・・・

というところで、ブランクその2〜地理的なブランク〜です。



玄、のみならず穏乃・憧、そして宥姉
現在の阿知賀女子学院麻雀部員たちが住んでいるのは、個人的に今やすっかりおなじみ、吉野山です。


吉野山の風景は、阿知賀編第1話から様々な場面で取り入れられていましたが、
今年3月に発売された全国編第1巻BDの付録で描かれた特別編漫画で
ストレートに「吉野山」であると明記されました。

意外と地名がはっきり書かれていることって
あまりない気がしますね。


松実家の経営する旅館は「さこや」、
憧の家は「吉水神社」が
モデルになっています。

松実館(旅館さこや)

この奥の坂を登ると吉水神社


穏乃については明確なモデルがあるのかはわかりませんが、
吉野山の通りに並ぶ土産物屋であるようです。

また、今は転校してしまいましたが、和が住んでいたのも吉野山でした。

番外編で登場した穏乃の家が経営する店



ところが麻雀部員の中で唯一、灼だけは吉野山に住んでいないのです。

穏乃に頼まれて、玄が灼のところへ訪ねていく場面、
そしてたどり着いた灼の祖母が経営しているボウリング場・・・


これらは吉野山のある吉野町ではなく、その隣、大淀町に関連のある場所です。

しかも鷺森レーンズのモデルとなりうるボウリング場は、
この地域では「吉野ラッキーボウル」以外にありえないのですが
この吉野ラッキーボウルは大淀町の中でも西の端、
吉野山より、むしろ五條市に近い立地となります。

吉野ラッキーボウル外観(Yahoo!ロコより)


吉野山と吉野ラッキーボウルの位置関係をもとに
玄たちの住まいと灼の住まいを示すと
このように一人だけずいぶんと離れていることがわかります。

近鉄の駅の数で説明すると、吉野山は吉野線終点の「吉野」ですが、
そこから吉野ラッキーボウルへは
(最寄は「大阿太駅」でそこから徒歩14分※Yahoo!ロコによる情報

吉野−吉野神宮−大和上市−六田−越部−下市口−大阿太

と6つも先の駅になってしまいます。

 ※ちなみに大阿太の次が「福神」
  憧が中学時代に通った阿太中(阿太峯)があるとされているのがここです。



もちろん、あくまでもフィクションの世界なので、
現実の立地と作品世界のそれをいっしょくたにするのは適切とは言えません。

前述の玄が灼の所へ行こうとしている場面の背景も大淀町ですが
同じ大淀町とは言え、こちらは吉野山寄り、大和上市駅近辺の景色です。
ここから実際の吉野ラッキーボウルまでは徒歩では遠すぎるうえ、
吉野から電車に乗って、わざわざ上市で降りてそこから4駅分も歩くというのは、
まずありえないルートです。

背景とストーリー描写との関係は、あくまで参考程度に留めておくのが妥当でしょう。
上掲の玄が歩いている道の向こうにあるのは
大淀町増口コミュニティセンター
2巻表紙裏の背景にもなっています

とはいえ、具体的な位置はともかく、
灼の所へ行く道のりの描写は、
間違いなく「吉野山」ではなく「大淀町」ですし、
そもそもボウリング場のような比較的大きく、
かつ平らなスペースを要する遊戯施設が
吉野の山中に建っているはずがありません。


麻雀部員たちの中で、灼だけは山以外の別の地域に住んでいる。
これは確かなのです。

アニメ版ファンブックに掲載されている資料(p95)
1話で転校する原村家も示されている一方、
やはり鷺森家だけは確認できません



となるとどうなるかというと、住んでいる地域が違えば、当然、通った小学校が違うと言うことになります。

これまたあくまで参考ですが、吉野山に住んでいる子が通うのは吉野町立吉野小学校

  ※小林立先生のHPにて紹介された、
    現在小5・小6の阿知賀子ども麻雀クラブの子どもたちが通っているのは「吉野山小学校」です。

    ただし、これもフィクションの中での話で、
    実際には、阿知賀小学校同様、吉野山小学校も
    かつて実在していましたが既に閉校しています。
    そのため、今、吉野山に住む子は吉野神宮駅近くにある吉野小学校に通っています。


旧吉野山小学校
ここの一室が阿知賀麻雀部室の
モデルになっています

    1話でバスを待っていた様子からすると、穏乃たちが通っていたのも、
    名前こそ吉野山でも、立地的にはおそらく吉野小学校の方に近いものと思われます。
    本当に吉野山小学校だったなら、その敷地(跡)は蔵王堂のすぐ横。
    穏乃・憧と和が会った場所から徒歩で10分もかからず、あえてバスを使う必要はありませんから。


    阿知賀(女子学院)といい、吉野山(小学校)といい、
    今は既にない学校名をあえて使ったのは、
    あくまで架空の舞台ではあるけれども、
    現実に近い世界観を匂わせるためであったのかもしれませんね。





一方、大淀町に住んでいる子たちは、町内にある3つの大淀町立小学校のいずれかに通います。
吉野ラッキーボウルを基準にすると「大淀桜ヶ丘小学校」
大和上市近辺なら「大淀希望ヶ丘小学校」ということになるでしょうか。
(※くどいようですがあくまで現実に即して考えるなら、ですよ)

いずれにしても住む町が違う以上、灼が通ったのは吉野小でもなければ、吉野山小でもないということです。


以前のコラム6にて、体質的な理由から、宥姉は他の子たちとは別の学校に通っていた可能性があると推測しましたが
校区と言う、宥姉とは違うごく一般的な理由で、そして宥姉よりずっと高い確率で、
灼と玄が通っていた小学校は別々なのです。


幼稚園の頃は仲がよかったとしても、
小学校6年間はクラスどころか学校さえ違ったとなれば
関係が離れてしまうには十分な理由です。

中学時代の穏乃が、阿太中に進んだ憧と「放課後すら遊ばなくなった」こと
加えて学校は同じでもクラスが別々になり、さらには翌年転校する見込みの和と
疎遠になってしまったことも踏まえれば
当時の穏乃より幼く(小学生)、
より長く(中学校3年間に対して小学校6年間)別れていた2人が、
昔のように一緒に遊ぶ関係には戻れなかったのも
無理からぬことだと思います。


さらに、ここへ追いうちをかけるようにプラスされるのが、
松実家と鷺森家の家庭環境です。
これもコラム7で触れましたが、宥姉が灼のことを
「鷺森さんとこの灼ちゃん」と苗字含みでしており、
松実家と鷺森家には家族ぐるみでの付き合いがあったことを示唆していました。

それは地理的なことを踏まえると、
「互いの住まいが離れており、子どもだけでの行き来はできなかった」
ということでもあるでしょう。


幼稚園の頃は家族に連れられて松実館を訪れ、松実家の面々と一緒に麻雀を打っていたという灼。
しかし、松実家ではお母さんが亡くなり、
鷺森家でも何らかの理由で灼の両親の存在がフェードアウトしてしまっている。


麻雀、そして家族。かつてふたつの家をつないできたはずの縁が、この10年の間にぷっつりと切れてしまったようなのです。







そして最後にその3〜心理的なブランク〜



これは玄というより、むしろ灼の、
すなわち灼と赤土先生との関係が影響していたものと思います。


その感情の一端は、やはり例の、玄からのお誘いの場面で垣間見ることができるかと思います。


「まだやってんの? あの麻雀教室」


「え・・・もしかして灼ちゃん知らないの?」
「赤土さん、実業団で活躍してるよ?」



灼は赤土さんが熊倉さんのスカウトで福岡の実業団に入ったことを知らなかった
・・・だけでなく、クラブの現在のことを尋ねています。

ということはよくよく考えてみると
玄に赤土さんが実業団入りしていることを告げられたこの時まで、
灼は阿知賀こども麻雀クラブはまだ続いていると思っていたわけです。


それはつまり、『赤土さんは自分が通っている阿知賀女子学院に、今も顔を出している』と思っていたということ。
にも関わらず、灼は赤土さんに会おうとは思わなかったし、知ろうともしなかった。

赤土さんのことをすっかり忘れていた?そんなはずもないのに。




・・・灼に声をかけるまで、5人目の部員を探すのに難航したのは、
単にその相手の親密度とか、麻雀の腕前だけに限ったことではありません。
そのへん(当然、学校によって差はありますけど)、学生生活の頃を思い起こしていただきたいのですが
部活動に興味のある学生は、入学の春から初夏にかけて、概ねどこに入るか決めてしまいます。
そのため、新年度が始まった頃には、各部による勧誘活動をしばしば目にするものです。
   他の作品になりますが、参考事例として。
   『阿知賀編』の前に五十嵐あぐり先生が作画を担当した
   『咲』と同じヤングガンガン連載作『BAMBOO BLADE』でも、
   主人公校である室江高校の剣道部で
   4月に新入生による部活見学の様子が描かれています。
よって、1学期が終わり、夏休みに入る頃には、大方の入部先は決まってしまい、
あとに残っているのはほぼ部活動に興味がないか、そんな暇のない人たちです。


まして阿知賀は中高一貫校です。
麻雀部がとりあえず2人から認められる同好会の形でスタートした頃、
宥姉と灼が部員「候補」として玄から紹介される段階で、
既に同好会を名乗っていましたから
この時のメンバーは当時高1の玄と中3の穏乃。これで2人。
(※憧はまだ阿太中生)
つまり中学生も部員の数の勘定に入るのです。


部員獲得活動は、中学生入学の段階から行われていたことでしょう。
阿知賀は学生の数がそれほど多くないらしいので、
部の維持のためにも、なおさらです。
この状況で、インターハイ出場条件である高校生部員の候補を
今さら探すことはかなり難しかったのです。


ですから吉川さんや中島さんに、いっとき遊ぶならまだしも、入部となると断られたのも、
ノートに×ばかりが埋まったのも、それほど理不尽でも不自然でも、
極端な話、疎外されていたわけでもありません。

憧のような編入生を除けば、入学して既に3年以上が経過。
高校生になってもまだ部活に入っていない、
部活に興味がない、時間などの余裕のない人から探さないといけなかったので
想定されたハードルはなかなか高かったわけです。




  ※以下余談


    中学生からOKだとすると、元こども麻雀クラブメンバーで
    現在阿知賀女子中1の志崎綾ちゃんも「6人目の部員」として
    入部している可能性があるということになります。
 
クラブに通っていた7人の子どもたち⇒
辰巳春菜(小6)・佐々岡よし子(阿太峯中1) 
山谷ひな(小5)・ギバード桜子(小6)・米田未来(小5) 
桐田凛(小6)・志崎綾(阿知賀女子中1) 
上でも触れましたが、小学生は全員吉野山小在籍という設定 
    阿知賀全編を通して、結局のところ、部室にいるどころか、
    制服を着た姿も出てきませんでしたが
    阿知賀女子学院に在籍する生徒の中で、
    灼に対して、明確に「部長」と声をかけた描写があるのは、実は彼女だけです。

    (ちなみに玄や穏乃たちは「灼ちゃん」または「灼さん」と全員名前呼び)


部員でなければ、普通は名字か「先輩」、
あるいは部長「さん」であって「部長」とは呼びませんね。

(桜子が「ぶちょー」と言ってるけど、これは綾の追随でしょうし)


清澄の竹井部長も、「清澄の部長」という校名含みの紹介を除けば、
部員以外からは姓名または「会長」と呼ばれます。
(久さんは清澄の学生議会長でもあるので)
清澄の生徒全体から見れば竹井さんは会長であり、
咲も麻雀部に入る前は「会長」でした。

同じ部のメンバーだからこそ、その長を部長と呼ぶわけですね。

 
    番外編を見る限り、クラブ解散後も麻雀に対する興味は持続していたようなので、
    入部している可能性はあるのですが
    10年ぶりのインターハイという難関を目指す先輩たちを見て
    自分は応援する側に回ろうと思ったのかもしれませんね。

    子どもたち7人の中では最高学年、かつ唯一の阿知賀学生ということもふまえると、
    「阿知賀こども応援団」の発起人は彼女だったのではないかな、と。

    (というか、だったらいいなぁ、とか)




・・・閑話休題(それはさておき)




そんな中、麻雀部にとって「運よく」、灼は部活には入っていませんでした。
もちろん灼には相応の理由がありました。

玄が勧誘に訪れたボウリング場で、灼は受付の仕事をしていました。
このボウリング場は祖母の経営で、上述の通り、両親の所在が不明ですので、
家族の一員として、また麻雀の打ち筋からも感じ取れる
彼女のボウリングへの愛着からしても
灼が仕事を手伝わないはずがありません。
灼は、放課後の時間帯を、学校に留まることなく、
家のために割いてきたことでしょう。


しかし、そういう事情を差し引いても
灼が放課後の活動を、ひいては学校に留まることで起こりうる
赤土さんとの接触を避けていたことは否定できません。

家の仕事で忙しかった、
あるいは他の部活にも興味がなかったからだとしても、
晩成部員の初瀬たちですら名前と顔を知っていたほどの有名人である
赤土晴絵が今、自分の通う学校にいるのかいないのか、
入学して以来ずっと知るすべがなかったとは考えにくいからです。


それは無関心ゆえではなく、自分からそこに近づこうとしなかった、
という意図を除いては。

車窓から見えた顔だけで
かつて晩成を破ったという経歴も含め
それが赤土晴絵だと気づく初瀬と友人(車井百花さん)



「私はいつも待つ方だった」
後に述懐しているように、玄は玄で基本受け身の、去る者は追わず的な気質の子ですが、
一方で灼の方も、おそらくは玄と自分から積極的な関わりを持とうとはしなかったのではないでしょうか。
なぜなら、阿知賀こども麻雀クラブがまだ続いていると灼は思っていた以上
そのクラブ員である(あった)玄は、学院の中で最も赤土先生に近い立場だったのですから。


赤土さんのことを忘れていたはずはない。
あるいは思い入れをすっぱり断ってしまったというわけでもない。
それは10年近くも前にもらったネクタイが机の引き出しに、
今でもすぐ取り出せるところにしまっておかれていたことからもわかります。

また、そもそも阿知賀女子学院に入学したこと自体が、
赤土さんに対する意識と無関係ではなかったと思います。




もちろん他にも入学理由がなかったとは言いきれませんが
穏乃曰く「これでも中高一貫のお嬢様校」
という阿知賀女子学院は、当然私立校。
それも東京入りした後の宿泊における羽振りのよさからしても
決して学費の安い学校ではありません。


大淀在住なら、憧が選んだように阿太峯、
はたまた他の公立中学校に進むといった選択肢もあったはずですが、
学費・学力・交通、いろいろな条件を鑑みた上で、
灼は阿知賀女子学院への入学を決めてきたのです。

 

帝国ホテルに3部屋×決勝までの日数
一体いくらかかっているのか、とても計算できません・・・
後援会が後押ししてくれているようですが
つまりそれだけ資金があり、なおかつ
費用を出すに足る、信頼度の高い学校でなければ
およそ成り立たない待遇です。

※もちろんそれだけの支援を得た赤土さんの手腕もすごい。


赤土さんがいた、おそらく今もいるであろう阿知賀女子学院に、灼は入ってきた。
にもかかわらず、赤土さん自身はおろか、赤土さんに関わることについても
灼は望んで近づこうとはしなかったようなのです。



なぜそこまで避けるに至ってしまったのか、
それはひとえに、10年前の憧れの反動のゆえだったことでしょう。

言わずもがな、赤土さんが麻雀をやめてしまったこと


これからも応援していると言ったのに、ネクタイをくれたのに、
自分の願いに応えてくれなかった。
あまつさえ、「選手との関わりを禁ずる」と言う当時の大会ルールのこともあって、
かつては近づいてはいけないとさえ思えたほど、凜とした輝きを放っていたのに
そんな光彩も失せて、近所の子どもたちと戯れている。

・・・「そんな姿、見たくない」



当時の灼の失望感については、以前のコラムでも触れたことがありますが
前述の地理的要因を踏まえると、さらに強く、あるいは深くなるのかもしれません。




『鷺森灼は吉野山に住んでいない』

それはつまり、赤土さんを迎えたあの時、灼は大淀町から吉野山まで出向いてきていたということ。


しかもこの時、周りには誰の姿も描かれなかったことから
最寄が大和上市にせよ、大阿太にせよ、
当時小学1年生の女の子が一人、電車に乗り、山を登って、赤土さんを待っていたのだということになります。



電車と言うと、『シノハユ』にて、当時小学2年生のはやりん(瑞原はやり)が
牌のおねえさんこと春日井真深の招きを受け、
地元・島根から遠く横浜まで、という大旅行をしています。

 ※もちろんはやりんに気づかれぬよう、
   お手伝いの高橋さんが後ろからそっと見守っていますが。



単純な距離の数字の上では、この時のはやりんには及ばないかもしれません。
しかし、1年生の子どもにとって、単身で吉野山まで赴くことが
どれほど大きなことだったか。
加えておそらくは自分の、わずかな小学生の小遣いで。

しかも、向かった先で待っているのは華々しいコンサートではありません。
準決勝で惨敗し、気落ちしているであろう赤土さんの姿なのです。

それでも灼は会いに行った。行かずにはいられなかったのでしょう。




切符を握りしめ、電車のホームから、ロープウェイの窓から、
あるいはロープウェイに乗る金銭的な余裕まではなかったとしたら、
代わりに登ったであろう長々と続く七曲りの坂道から。
少しずつ山へと近づいていく景色を見ながら、
当時の灼は何を思っていたでしょうか。


ロープウェイの駅から黒門へ。
吉野山を登るならば必ず通るであろう一本道。
そこで待ち続け、そして姿を見つけた時、

「はるちゃんお帰りなさい!インターハイ、カッコよかったです!」

文にすると長くはない、けれどその言葉に精一杯の力を込めて、
赤土さんに何を伝えたかったのでしょうか。
「これからも応援してます!」

何を、この時の灼は願っていたのでしょうか。


・・・そして、その精一杯の願いが叶えられないとわかったとき、

灼の胸中を、どれほどの空虚が駆け抜けてしまったことでしょうか。

決してそれは誰の、赤土さんの責任でもない、けれど。








・・・まとめると、

確かに玄と灼は幼なじみではあったけれど、
時間的・地理的そして心理的ブランクもあって
高校一年生当時の段階では、
それほど仲が良いと言える間柄ではなかったということです。


名前で呼びあえる関係が残っていただけ、まだましであったとも言えます。

直接的に2人の間で関係が破綻する
何かがあったわけでもないので、
「仲が悪かった」というのとはまた違うのですが・・・

悪い印象はないけど、付き合うきっかけもない。
「なんとなく疎遠」
案外、こういうのがなかなか厄介だったりします。



昔はよく遊んだのに、今はすれ違い、再び重なることはない。
寂しい話かもしれません。しかしかつてあの活発な穏乃でさえ口にしたこともあります。


「やっぱ世の中そんなもんかも」


去る者は日々に疎し。
一度離れた関係は、そう簡単には元に戻りません。
もう二度と会わないことも、あるいは再会したとしても、
既に互いにはそれぞれの人間関係、あるいは生活環境ができあがっており、
つかのまにすれ違っただけで、結局結びつくこともなく
そのまま離れていってしまうことも往々にしてあります。

時を、場所を隔てても変わらぬ友情は確かに美しいし、
一つの理想であることには違いないのですが
阿知賀編、特にその冒頭においては、そういう理想には遠い、
思い切ってドライな一面がまず前面に置かれていました。


また、番外編にて、「みんなでかましに行こう」と
わざわざ電車で憧の通う阿太中まで行ったにもかかわらず、
今の友達(初瀬)と仲良くしている姿を目の当たりにし
ギバード桜子をして「出ていきづらかったね」とつぶやく場面もありました。

これをして、薄情というのは酷です。
なるようになった結果、あるいは前向きに進んだゆえでのことですから
責めるのは筋違いのことと思います。
見方を変えれば、新しい環境でも自分なりに頑張ってるねって安心できる姿でもあるわけですからね。



時とともに人は変わっていく。
本人たちが望むにせよそうでないにせよ、隔たりが生まれてしまうことはあるものです。
往々にして、世の中って、人生ってそんなもんなのです。



そして、そんなもん・・・だからこそ、「そんなもん」で終わらなかった出会いは、再会には

きっと、物語にする「価値」があるのでしょう。



「玄さん、私・・・またここで麻雀がしたい・・・!みんなと・・・!」


「うん・・・そうなったらいいなって・・・私も、ずっと思ってた・・・」
そのままではひょっとしたらもう重ならなかったかもしれない
そんな彼女たちを再び結び付けてくれたのは、
麻雀物語らしく、つなげてくれたのは麻雀だったのです。




前提として「疎遠」を、あるいは「離別」を感じ、そこから「スタート」として走り始めた道のり。


それは姉とのつながりを得る機会として、

全国大会出場を目指した咲のように
あるいは、突然の失踪を遂げた母親に気づいてもらうため、

麻雀大会の会場へ駆けだしていった慕のように



本編である『咲』、そして『阿知賀編』及びその連載終了後より始まった『シノハユ』
原因はそれぞれですし、まだ語られていないところも多いのですが、
一つ、3作に共通すると言えるのは、
『かつては親しかったはずの「誰か」との間に、距離が生まれている』ということであり・・・


その間を克服するためのきっかけとして、少女たちは麻雀に可能性を求めていったのです。







客観的に考えるなら・・・麻雀部復活に至るまで、また至ってからも、もっと賢明な方法はあったと思います。
なんだかんだ言っても、幼なじみなのだから、
玄はもっと早く気づいて灼に声をかけてもよかったんじゃないかと言われれば、
やはりそれはその通りだと思います。
また、灼にしても、せっかく赤土さんがいる(入学当初は確かにいた)阿知賀女子学院に来たのだから
クラブに入らないまでも、せめて様子くらいうかがってみてもよかったんじゃないかとも言えるとは思います。


でも結局のところ、それは後から、傍から見ていてそう感じるということであって、
本人には本人の、その時にはその時なりの思いもあるものでしょう。
あるいはただ気づかない、わからないことだってあるでしょう。
人間、必ずしもベストの判断ができるわけではありません。
要領が悪い時も、失敗することも、「ああすればよかった」と思うことも、多々あります。


けれど、大事なことは、今まで気づかなかったことに気づいていけるか。
自分ではわからなかったのならば、代わりに教えてくれる、諭してくれる仲間がいるか。
そして様々な経験を胸に、前へ進んでいけるか・・・

いつの間にか生まれてしまった違いを、差を、
隔たりがあるなら「ある」と、ひとたびそれを自覚し、飲み込んだうえで
その壁を乗り越えるために努力できるかと言うことだと思うのです。


互いの距離を克服するための熱意が、積み重ねが、
時としてずっと維持してきた場合以上の力を、与えてくれることもあるのですから。



「私が今ここにいるのは、このタイのおかげもあるんだよ。

 だから、連れて行く!決勝まで・・・!!」



もし、赤土さんが10年前のインターハイにおいても順風満帆であったなら・・・
あるいは、負けたとしても挫けることなく立ち上がり、翌年の大会、
そしていずれ実業団、またはプロの道へと進んでいたならば、
それは間違いなくその時点での「ベスト」であり、
「憧れ」という意味での当時の灼の願いは、いっそ成就していたのかもしれません。

しかし、それはあくまで「憧れの選手」と「ファン」という関係であり、
灼にとって、赤土さんは素敵だけど、決して近づけない存在のままであったかもしれません。
少なくとも、「阿知賀女子学院の監督」と「選手」という関係で肩を並べて、
共にインターハイを目指すという間柄には、まずならなかったでしょう。


当時の灼にとって、また赤土さん自身にとっても、不本意なことであったとしても
赤土さんの再起のためには、そして後々の部復活への礎となるには
やはり阿知賀こども麻雀クラブの存在が不可欠でした。
変な話にはなりますが、赤土さんがひとたび挫折したからこそ、生まれた絆でもあったのです。

空高く駆け上がるためには、一度地を踏みしめ、足に力をこめなければいけないように、
長い時を経て、彼女たちは再び走り始めました。
それは、そう、あの頃よりも、もっと大きな絆で。


禍福はあざなえる縄のごとし・・・といいます。
その時のよいことが、後にとってもよいこととは限りません。逆もまた然り、です。
さらに将来のことを思うならば、今の決勝進出を果たした彼女たちの姿が、そのまま未来を保証するわけでもありません。
それは彼女たちが時間をかけて、身を以て体感してきたことです。これまでも、これからも。
いずれまた形を変えてゆくことでしょう。善きにせよ、そうでないにせよ・・・


そんな彼女たちの姿がどう描かれるのか。
いや、果たして描かれるのかもまだわかりませんが、せめて長い目で見守っていければな、と思っています。




確かに要領は悪いかもしれない。

もっと賢い方法はあったかもしれない。

ずいぶんと回り道をしてしまったように見えるかもしれない。



・・・けれど、準決勝大将戦において穏乃が心に決めたように、きっと

それもまた力になっているから

ね。







以上で、今回のコラムを終わらせていただきます。ここまで読んでいただき、ありがとうございました。



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