コラム:咲 阿知賀編その8〜近いようで遠い、「あの人」への距離〜 『阿知賀女子学院麻雀部ができるまで』 |
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スタンプラリー以来、約1年ぶりのコラムです。 今回は論点一つに絞って、話を展開しようと思います。 もっとも一つだけのはずですが、何故かそんなに短くないです。よろしければ長〜い目でお付き合いください。
時系列的には阿知賀編1巻に収録されている第2話の中ほど(1巻p103) 阿知賀女子学院麻雀部を結成し、インターハイを目指すためには5人必要で そのために宥姉に加わってもらったものの、あともう一人が見つからない・・・という状況です。
・・・さて、以前から不思議ではあったことですけど このように明確に描かれると、なおのこと浮かびあがってくる一つの疑問 なんですぐに鷺森灼のところへ行き当たらなかったのでしょうね?
なぜ、灼ちゃんのもとに誘いに行くのに時間がかかったのか? そこらへん、例によって例のごとく、話の都合と言われればそれまでなんですけども (※部員集めは難しいと第1話で触れていたのに、憧・宥姉・灼と とんとん拍子で「当たり」を引いてしまったら、苦労した感がない、とか あるいはここでの会話を通して、灼がどういう子なのか紹介するメタ的な意味合いを持たせるため、とか) ここは一つ私なりに、類推してみたいと思います。 ではこれまた例によって例のごとく、話に付きあってくださる暇がありましたら以下へ、どうぞお願いします。 ・・・端的に言えば、それだけ『ブランクが空いていた』ということなのでしょう。 ただし、ブランクと一口に言っても、そこにはいろいろな要素があるかとも思います。 その1〜時間的なブランク〜 まず、玄と灼の間柄について、一言で表すならば「幼なじみ」ということにはなります。 上述の通り、幼稚園の頃に松実館で一緒に麻雀で遊んだ仲です。 なんですけど・・・ ただし、それは10年も前の話です。 幼稚園の頃仲がよかったのだから、10年経っても仲良しのはず! ・・・とは、私、よー言いません。 (あの頃は一緒に遊んだけど、今はどこに住んでるのかもわからないなぁ・・・) という友達の名前が、振り返ってみれば頭の中で浮かんできます。
ましてこの2人の場合、小学生未満の頃です。 それまで(当時5〜6歳)より、それから(同15〜6歳)の方が遥かに長いのです。 もちろん、幼稚園の頃から高校に至るまでずっと仲が良い例もたくさんあるとは思いますが それが当たり前だとは、私にはとても思えません。
灼のことを思い出したのが、クラスメイトの玄より宥姉の方が先だったことについて。 同様にクラブに参加していなかった宥姉にとっては、 「小さいころから麻雀ができる子」で「赤土先生のファンだった」というのが灼に関する認識なのですが クラブ員だった玄からすると、「同学年でクラブに参加した子(≒麻雀に興味のある子)はいなかった」 という記憶の方がより新しく、鮮明です。 無論、それは灼も含めてです。 (クラブがあった中1の時も同じクラスだったのかはわかりませんが) クラブ解散後、2年もの間、部室を一人で掃除し続けてきたことと合わせて 「私の学年から候補を見つけるのは難しいかも」という意識も、あるいは働いていたのではないかな、とも思います。 それでも麻雀以外にいくつか接点があったのならそれほど疎遠になることもなかったでしょうけど・・・ というところで、ブランクその2〜地理的なブランク〜です。 玄、のみならず穏乃・憧、そして宥姉 現在の阿知賀女子学院麻雀部員たちが住んでいるのは、個人的に今やすっかりおなじみ、吉野山です。
ところが麻雀部員の中で唯一、灼だけは吉野山に住んでいないのです。
となるとどうなるかというと、住んでいる地域が違えば、当然、通った小学校が違うと言うことになります。 これまたあくまで参考ですが、吉野山に住んでいる子が通うのは吉野町立吉野小学校
一方、大淀町に住んでいる子たちは、町内にある3つの大淀町立小学校のいずれかに通います。 吉野ラッキーボウルを基準にすると「大淀桜ヶ丘小学校」 大和上市近辺なら「大淀希望ヶ丘小学校」ということになるでしょうか。 (※くどいようですがあくまで現実に即して考えるなら、ですよ) いずれにしても住む町が違う以上、灼が通ったのは吉野小でもなければ、吉野山小でもないということです。 以前のコラム6にて、体質的な理由から、宥姉は他の子たちとは別の学校に通っていた可能性があると推測しましたが 校区と言う、宥姉とは違うごく一般的な理由で、そして宥姉よりずっと高い確率で、 灼と玄が通っていた小学校は別々なのです。
幼稚園の頃は家族に連れられて松実館を訪れ、松実家の面々と一緒に麻雀を打っていたという灼。 しかし、松実家ではお母さんが亡くなり、 鷺森家でも何らかの理由で灼の両親の存在がフェードアウトしてしまっている。 麻雀、そして家族。かつてふたつの家をつないできたはずの縁が、この10年の間にぷっつりと切れてしまったようなのです。 そして最後にその3〜心理的なブランク〜 これは玄というより、むしろ灼の、 すなわち灼と赤土先生との関係が影響していたものと思います。 その感情の一端は、やはり例の、玄からのお誘いの場面で垣間見ることができるかと思います。
灼は赤土さんが熊倉さんのスカウトで福岡の実業団に入ったことを知らなかった ・・・だけでなく、クラブの現在のことを尋ねています。 ということはよくよく考えてみると 玄に赤土さんが実業団入りしていることを告げられたこの時まで、 灼は阿知賀こども麻雀クラブはまだ続いていると思っていたわけです。 それはつまり、『赤土さんは自分が通っている阿知賀女子学院に、今も顔を出している』と思っていたということ。 にも関わらず、灼は赤土さんに会おうとは思わなかったし、知ろうともしなかった。 赤土さんのことをすっかり忘れていた?そんなはずもないのに。 ・・・灼に声をかけるまで、5人目の部員を探すのに難航したのは、 単にその相手の親密度とか、麻雀の腕前だけに限ったことではありません。 そのへん(当然、学校によって差はありますけど)、学生生活の頃を思い起こしていただきたいのですが 部活動に興味のある学生は、入学の春から初夏にかけて、概ねどこに入るか決めてしまいます。 そのため、新年度が始まった頃には、各部による勧誘活動をしばしば目にするものです。
あとに残っているのはほぼ部活動に興味がないか、そんな暇のない人たちです。
・・・閑話休題(それはさておき)
「私はいつも待つ方だった」 後に述懐しているように、玄は玄で基本受け身の、去る者は追わず的な気質の子ですが、 一方で灼の方も、おそらくは玄と自分から積極的な関わりを持とうとはしなかったのではないでしょうか。 なぜなら、阿知賀こども麻雀クラブがまだ続いていると灼は思っていた以上 そのクラブ員である(あった)玄は、学院の中で最も赤土先生に近い立場だったのですから。
赤土さんがいた、おそらく今もいるであろう阿知賀女子学院に、灼は入ってきた。 にもかかわらず、赤土さん自身はおろか、赤土さんに関わることについても 灼は望んで近づこうとはしなかったようなのです。
当時の灼の失望感については、以前のコラムでも触れたことがありますが 前述の地理的要因を踏まえると、さらに強く、あるいは深くなるのかもしれません。 『鷺森灼は吉野山に住んでいない』 それはつまり、赤土さんを迎えたあの時、灼は大淀町から吉野山まで出向いてきていたということ。 しかもこの時、周りには誰の姿も描かれなかったことから 最寄が大和上市にせよ、大阿太にせよ、 当時小学1年生の女の子が一人、電車に乗り、山を登って、赤土さんを待っていたのだということになります。
昔はよく遊んだのに、今はすれ違い、再び重なることはない。 寂しい話かもしれません。しかしかつてあの活発な穏乃でさえ口にしたこともあります。
これをして、薄情というのは酷です。 なるようになった結果、あるいは前向きに進んだゆえでのことですから 責めるのは筋違いのことと思います。 見方を変えれば、新しい環境でも自分なりに頑張ってるねって安心できる姿でもあるわけですからね。 時とともに人は変わっていく。 本人たちが望むにせよそうでないにせよ、隔たりが生まれてしまうことはあるものです。 往々にして、世の中って、人生ってそんなもんなのです。 そして、そんなもん・・・だからこそ、「そんなもん」で終わらなかった出会いは、再会には きっと、物語にする「価値」があるのでしょう。
前提として「疎遠」を、あるいは「離別」を感じ、そこから「スタート」として走り始めた道のり。
本編である『咲』、そして『阿知賀編』及びその連載終了後より始まった『シノハユ』 原因はそれぞれですし、まだ語られていないところも多いのですが、 一つ、3作に共通すると言えるのは、 『かつては親しかったはずの「誰か」との間に、距離が生まれている』ということであり・・・ その間を克服するためのきっかけとして、少女たちは麻雀に可能性を求めていったのです。 客観的に考えるなら・・・麻雀部復活に至るまで、また至ってからも、もっと賢明な方法はあったと思います。 なんだかんだ言っても、幼なじみなのだから、 玄はもっと早く気づいて灼に声をかけてもよかったんじゃないかと言われれば、 やはりそれはその通りだと思います。 また、灼にしても、せっかく赤土さんがいる(入学当初は確かにいた)阿知賀女子学院に来たのだから クラブに入らないまでも、せめて様子くらいうかがってみてもよかったんじゃないかとも言えるとは思います。 でも結局のところ、それは後から、傍から見ていてそう感じるということであって、 本人には本人の、その時にはその時なりの思いもあるものでしょう。 あるいはただ気づかない、わからないことだってあるでしょう。 人間、必ずしもベストの判断ができるわけではありません。 要領が悪い時も、失敗することも、「ああすればよかった」と思うことも、多々あります。 けれど、大事なことは、今まで気づかなかったことに気づいていけるか。 自分ではわからなかったのならば、代わりに教えてくれる、諭してくれる仲間がいるか。 そして様々な経験を胸に、前へ進んでいけるか・・・ いつの間にか生まれてしまった違いを、差を、 隔たりがあるなら「ある」と、ひとたびそれを自覚し、飲み込んだうえで その壁を乗り越えるために努力できるかと言うことだと思うのです。 互いの距離を克服するための熱意が、積み重ねが、 時としてずっと維持してきた場合以上の力を、与えてくれることもあるのですから。
もし、赤土さんが10年前のインターハイにおいても順風満帆であったなら・・・ あるいは、負けたとしても挫けることなく立ち上がり、翌年の大会、 そしていずれ実業団、またはプロの道へと進んでいたならば、 それは間違いなくその時点での「ベスト」であり、 「憧れ」という意味での当時の灼の願いは、いっそ成就していたのかもしれません。 しかし、それはあくまで「憧れの選手」と「ファン」という関係であり、 灼にとって、赤土さんは素敵だけど、決して近づけない存在のままであったかもしれません。 少なくとも、「阿知賀女子学院の監督」と「選手」という関係で肩を並べて、 共にインターハイを目指すという間柄には、まずならなかったでしょう。 当時の灼にとって、また赤土さん自身にとっても、不本意なことであったとしても 赤土さんの再起のためには、そして後々の部復活への礎となるには やはり阿知賀こども麻雀クラブの存在が不可欠でした。 変な話にはなりますが、赤土さんがひとたび挫折したからこそ、生まれた絆でもあったのです。 空高く駆け上がるためには、一度地を踏みしめ、足に力をこめなければいけないように、 長い時を経て、彼女たちは再び走り始めました。 それは、そう、あの頃よりも、もっと大きな絆で。 禍福はあざなえる縄のごとし・・・といいます。 その時のよいことが、後にとってもよいこととは限りません。逆もまた然り、です。 さらに将来のことを思うならば、今の決勝進出を果たした彼女たちの姿が、そのまま未来を保証するわけでもありません。 それは彼女たちが時間をかけて、身を以て体感してきたことです。これまでも、これからも。 いずれまた形を変えてゆくことでしょう。善きにせよ、そうでないにせよ・・・ そんな彼女たちの姿がどう描かれるのか。 いや、果たして描かれるのかもまだわかりませんが、せめて長い目で見守っていければな、と思っています。 確かに要領は悪いかもしれない。 もっと賢い方法はあったかもしれない。 ずいぶんと回り道をしてしまったように見えるかもしれない。 ・・・けれど、準決勝大将戦において穏乃が心に決めたように、きっと
ね。 以上で、今回のコラムを終わらせていただきます。ここまで読んでいただき、ありがとうございました。 関連記事:咲 阿知賀編その1〜憧・穏乃・玄と「阿知賀こども麻雀クラブ」の子どもたち〜 :咲 阿知賀編その2〜漫画版とアニメ版 2人の玄ちゃん〜 :咲 阿知賀編その3〜怜は一体何を「改変完了」したのか?〜 :咲 阿知賀編その4〜仮説・ドラにまつわる玄ちゃんの記憶〜 :咲 阿知賀編その5〜「話の都合」と言われればそれまで?のことを真面目に考えてみる〜 :咲 阿知賀編その6〜場面と台詞から類推してみると・・・〜 :咲 阿知賀編その7〜いろいろなところにある「きっかけ」〜 :咲 阿知賀編寄り道〜一ヶ月遅れの探訪レポート〜 :咲 阿知賀編スタンプラリー〜歩いてきました吉野山〜 :咲 阿知賀編キャラクター紹介〜『阿知賀こども麻雀クラブ!』〜 :咲 阿知賀編ヒストリー〜年表(阿知賀女子学院のあゆみ)〜 |